そう 16年前のこの日にわが街神戸が震災にあった日
そのころを思い出してみた。
その日は、確か自分が担当していた物件の事実上の着工日のような日だった。
まだまだ、現場の事何かわかってない若輩者だったときだった。
確かその前日は、祭日で会社は休みだったので、会社の車には乗って帰らなかったんだ。
止める所も無かったし、その日だけなら早く起きて電車でいけば間に合う時間だったんだ。
震災の前日の会社が休みの日、元町の知り合いの事務所でパースを描くアルバイトに行ってた。
夜、なんとか格好がついてそろそろ帰りますって外に出て、駅に向かって歩き出した時感じたのが
ものすごく、月が綺麗に光ってた。今でもよーく覚えてるけどすごく印象的だった。
震災の朝、普段ならまだ寝てる時間だったけど、自宅のある神戸市垂水区から大阪の鶴見区の現場まで
電車で行くために、早く起きた。
恐らく5時10分位だったと思う。
シャワーを浴びて、着替えて、コーヒーを入れて、飲んで、そろそろ行こうかなと思い
玄関に向かって歩いている時だった。
いきなり、揺れだしたんだ。
でも、まともに地震なんて体験した事のない関西人なので、何が起こったの理解するのに
少し時間がかかった。玄関に立てかけた鏡が倒れて割れる音、本棚が倒れる音、、、
少しして収まった時、とりあえず電話を手にとった。全然つながらなかった。
確か、177に電話したんだと思う。
当時、会社から携帯電話を持たしてもらってたので携帯からも何度の電話してみたが
つながらなかった。
マンションだったので、電気ダメ、電話も繋がらない、テレビもダメ
少しして、外に出てみた。
私の住んでる辺りはほとんど激しい被害はなかったので、普通に出勤しようとしている人を見かけた。
事の重大さに気づいていない私の頭にあったのは、「現場遅刻したら怒られる」こんな事でした。
部屋に乾電池式のラジオなどあるはずもなく、思い出したように駐車場の車へ急ぎました。
カーステのラジオを聞くためです。
内容はその時聞けたのかどうかは思い出せません。
しかし、少し明るくなって廻りの様子がわかるようになっていました。
再び、駐車場からマンションへの帰り道、外壁が崩れてバラ板がみえている家が何件かありましたが
まだまだ、そんなひどいことになってるあとは知る由もありませんでした。
マンションの下では、早い時間に出勤した方が帰ってこられて
「2号線めちゃめちゃや!」って教えてくれました。
そこで、ようやく大変な事が起こっているらしい事がおぼろげながら分かってきました。
それと同時に「きっと、今日は仕事行ってる場合じゃないだろう」と感じたのでした。
そこから、車で7分位の実家へ急行しました。
すると、母は元気でした。被害は、玄関が開かない等でした。特にそれ以外は被害は無かったと思います。
一戸建てだったので、テレビも映りました。
そこで見た光景は、阪神高速が横倒しになって各地から火の手が上がってる映像でした。
ちょっと、背筋が寒くなりました。なぜなら、会社の車で帰ってきて、其の車で出勤していたなら
ちょうど、高速道路からお落ちかけのバスの映像が写っていた辺りを走行していた時間帯だったからです。
そのころ、携帯電話がなりました。当時務めていた会社の社長からでした。
「なかっちゃんいきてるか?」が、第一声でした。
当時の携帯電話はフル充電でも、2分位しかバッテリーがもたなかったのですが
落ち着いてからでてきたらえ〜からとの社長の言葉に、思わず、自宅で出来ることがあったらやりますと
返事をしたのでした。
結局その日から数日は実家で過ごすことにしました。
母が心配だったこともありますが、実家はプロパンだったので、暖かいお風呂にはいれました。
幸い貯水池が実家から3分くらいの所にありましたし、友人のお店はなぜか水道が出ていました。
なので、自宅マンションにいるより快適でした。
自分の居場所が片付いたら、気になるのは友人達です。
特に、映像でよく写っていた銀行が倒壊した場所にほど近い友人宅が心配だったので
次の日の夜、バイクで見に行きました。
家は倒壊していましたが、一枚の張り紙がありました。
「みんな元気で避難してます」と、、、ものすごくホッとしたのを覚えています。
幸い、私の廻りではみんな無事でした。
確か、4日目位でしょうか 自宅に帰ると巻物のようなfaxが会社から届いていました。
見積りをするようにとのことでした・・・・
私の住む垂水区は幸い被害も少なく、少し車で西向いて走れば普通の暮らしがありました。
会社を休んだのは、確か1週間でした。
毎日、垂水から、大阪の難波まで通ってました。
震災で被害のひどかった地域を抜けて毎日通ってました。
大阪につけば、ほぼ何時も通りです。街も、仕事も、
普通に居酒屋だって、ブティックだってカラオケだってやってます。
社長からは、少しの間でも大阪に引っ越してこいと言われましたが
数時間かけての通勤を選びました。
確か、6時前に出て9時ころ会社か現場に行って、夕方会社に帰って残業して11時頃会社を出て
2時ころ帰って、実家に風呂入りに行って帰ってきて寝て又朝が来るの繰り返しに
只々、いつになったら電車動くんやろう?高速道路の復旧は何年後なんやろう?
こんな事ばかり考えていたように思います。
数ヶ月たち、電車が住吉まで来るようになってからは何故かバイクを原チャリにかえた記憶があります。
確か、置いとく場所がなかったのかな〜
街は埃っぽく、皆、ジーパンにスニーカーにリュック姿が基本になってました。
おしゃれな、ファッションの街やったやん??
その後、だんだん電車が復旧され、高速道路が復旧し、色んなものが復旧されていったのでした。
形の上では、復興したんだと思います。
でも、まだまだ問題は解決してないでしょうし、心の傷がいえない方も沢山いらっしゃると思います。
あの、絶望的な状況からここまで復興してきた事には胸をはって良いと思いますが
忘れ去られていくのは悲しいことです。
ルミナリエだってもとは、犠牲者の方の鎮魂と復興の為の灯りだったのでは?
単なるイベントとは違うはずです。
少し、当時を思い出しました
今あらためて「がんばろう 神戸!」
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